「原爆と戦争展」午後 西澤愼氏の講演 2023.8.11
(聞き書きと感想等 池辺幸惠 文責)
宝塚市在住(現在神戸市)の西澤愼氏(87歳)が満州引き揚げ体験と伯母の広島被爆体験を話されました。 証券会社勤務の父親が株式の統制で失業、満州進出のポスターを見て満州に渡り、現地招集され、敗戦となり母子で集団逃避行を繰り返し、冬が来ても日本から救援船は来ないので、栄養失調やチフス、凍死がたくさん出た。中国と米国の世話で帰国した。 「あの戦争はまだ続いていると思っている。あれだけ“満州は生命線”と煽っておいて棄民政策でわたしたちは捨てられた。補償もない。まだ終わってない!!!」「敵基地攻撃など政治家が平気で言う現在の状況を問いたい。体験者がいなくなるから、若い人に継承してほしい」と訴えた。
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原爆と戦争展 2023.8.11. 午後からの「話し合い」と 「感想」等
最初はマイクの調整が悪くてひびきすぎて大変聞き取りにくかった。録音も同様で話の半分も聞き取れない。しかし、戦争に関しては、一人一人に忘れられない記憶とドラマがあるのだな、そして隠されていた真実も出てくる!!!、とあらためて話し合うことの大切さを思い知りました。
● Mさん 87才 国鉄に勤務しておられて広島で被曝したお父様の手記を読み上げてらした。8月6日の当日は、出勤してドアを開けた時に光がはじけた。けれど、執務室の遮光カーテンにさえぎられて全くなんともなかった。一瞬の光だけであとは音もなくしずかだった。それから、傷ついた人たちがたくさんそれぞれに悲惨な様子で歩いてきて、広島駅周辺の悲惨な様子を生々しく手記に書かれていた。そして原爆の後もできるだけ汽車を走らせようとなさった、そのご苦労の数々の一部をよみあげてくださった。
● Uさん 92才 大阪の十三でで、B29が襲ってくる焼夷弾の下を走って逃げて母と手をつないで、トンネルの中にぎゅうぎゅうづめ。ところが、後、わたしの家だけ焼けてなかった。それから、親の実家の広島の南の呉市の山の上のおばあさんのところに疎開にいきました。 そして6日の朝、庭に出た時、ピカッと光って、耳がツンと鳴って、そして真っ白い雲が下からどんどん どんどんわいてきて、のびあがってきました、きのこ雲でした。火薬庫が爆発したとかデマが流れたりしたが、下の赤十字病院にどんどん負傷者が運ばれてきて大変だとわかった。わたしも叔母たちともっと南の方へと歩いて逃げた。敗戦のあと、大阪の女学校に復学しましたが、新聞をたたんだような教科書で、勉強よりなすやきゅうりやかぼちゃの食べ物ばかりつくってました。 そして今、怖いですねぇ、新聞を開けると武器の字がたくさんあって、また戦争に向かおうてしているこのご時勢がとても怖いです。
● Pさん 87才(在日2世) 終戦ではなく敗戦である。8月15日は天皇の玉音放送(ポツダム宣言受諾)であって、9月2日に降伏署名をした。そして連合軍による国連憲章には日本はドイツ、イタリアとともに「敵国」条項がある。だのに日本政府はそれを認めてない。そして現在は戦争へと軍備も軍事費も拡大してすすんでいる。南の島はすべて軍島になってしまった。この戦争に向かう流れをどう総括するのか。 そして、韓国の被爆者の方々への補償はある程度みとめられたらしいが、朝鮮人の被爆者には何ひとつなんの補償もない。朝鮮に対して、国としての謝罪も補償も何もないままです。 その上アメリカのプロパガンダそのままに国交断絶して、ロケットを日本をねらうミサイルだと偽って日本国民への脅しにつかっています。 朝鮮、南朝鮮、中国、世界の流れを総轄して、あの侵略戦争の反省と謝罪と日本軍の戦争犯罪をしっかり明らかにして、日本軍慰安婦へも徴用工への個人補償も、きちんと今からでもはっきりさせて賠償すべきだと思います。 8月15日は敗戦です。本当は9月2日の敗戦で終わったのです。そして敗戦を終戦だと言わないでほしい。
● Nさん. (女性) 80代 私は神戸の大空襲も経験しています。戦争は、武器を作って売ってお金儲けしてる人たちがたくさんいるのですね。そういう人がいるかぎり、戦争は絶対になくなりません。でも、そういう人間がいることも、これまで知りませんでした。 知らなくてもいいんじゃないかと思いながらも、いろいろ見せて貰ってびっくりしています。そういう無知なわたしがいます。 でも一番たいせつなのは、憲法9条を守って戦争をしないということですね。憲法9条ってほんと宝ですよね。
● (女性) 60代 わたしの父は中国に戦争に行きまして、それこそ軍人恩給もらうほど長いこといました。で帰ってから結婚して大阪大空襲にあいました。父は自転車に布団や荷物を積んで逃げてました。それから2回目の招集で、父は鳥取に行って砂丘で泳いでたそうですが、その時に広島のほうから、すごい雲が来たそうです、それが原子雲だったのです。で、同期で入隊した二人は広島に行かされて被曝して亡くなった。父はほんとうに愚かな戦争だったと言ってました。「日本は加害者だった、でも日本もひどいことをしてる。だからといって、原爆を落としたアメリカはひどい」と言ってました。 二度と戦争はない世の中になってほしいと言ってました。
● (女性) 80代 農家にいたんですが、2歳の頃だったんですが、畑の真ん中に穴を掘って、防空壕にしてたんですね。そこにおばさんに放り投げられて入れられた記憶があります。深い穴でトンネルになっていました。その記憶が残っています。
●(男性) 80代
玄関に防空壕を掘っていた、が警戒警報がなって空襲警報になったら、家族がみなその掘った穴の中にはいるんですね。 で、外をみたら焼夷弾が花火のようにふってきてました。飛行機が一機落ちてくるんですよ。で、操縦士は亡くなりましたがね、高射砲を打ってもB29には まったくあたらないんですよ、その鉛の塊がもいくつも落ちてきて、それはしょっちゅうあって危なかったです。
●. (女性) わたしの母は、母が生まれる前に祖父が出征して中国に行って戦死しておりまして、母は父の顔も知らないんです。で、祖父は出征する時に弟さんに、俺になにかあったら嫁さんを頼むぞと、それで祖母は弟さんと再婚しました、で弟たちとは父親がちがうんです。 わたしの夫の父親は出征して生き残ってもどってきました、がこの祖父もわたしの祖父と同じ言をのこしまして、そういのを逆縁というのですか、それでいろいろあったみたいです。 わたしの母親の母である祖母も、最初の夫の長男はロシアで死んだんですが、お墓は中は空でも立派なのが建てありました。その隣に祖父の墓もあるんですね。ところが、わたしの姉が言うには、「おばあちゃんはお風呂からでてきたら、いつもきれいにお化粧をするのよ」で聞いてみたら、その最初の夫と夢の中で会うから、きちんとお化粧しとくのです、って・・・兄弟が戦死した時に、残された妻はいろいろ辛い悲しい目にもあったのだなあ・・・と思いました。
● MIKIさん (在独の女性) 70代 平和教育はもちろん大切ですが、平和教育以上にまず日本人が一番すべきなのは、民主主義教育というか「人々が自分の意見を言う、そして、言う人を差別しない」 他人を容認することが重要だと思います。それが日本人には一番欠けていると思います。 そして日本はストライキしないのがおかしいです。日本の若い子が「なんでこんな迷惑のかかることをするのか」とばかりいってましたが。日本はブラック企業だと言いながらも、ストライキもなにもしない。言ってる人は限定されてたり。 でも、ドイツはしょっちゅうやっています。ストライキをするから給料が上がるんです。労組の腐敗があるかもしれないが、 今、必要なのはみんな自分たちの意見を素直に言う。そしてその素直に言ったことが、たとえ多少暴力的な言葉であったり差別的だったかもしれない、でもそれを容認する寛容性というのが、今日本には必要だと思います。 それに日本はマナー警察みたいなことばかり。どこにいっても、ああしろこうしろとアナウンスしたり張り紙がたくさんあったり。もちろんマナーは大切ですけれど、それは個々人が自分ですべきことであって、人から強制されてやることではないと思います。マナーや習慣は自分が自然にやるもので、人から強制されてやることは指令を受けてすることでしょう。 でも、それでしつけができていない、とか日本は親の責任だという。 これもちょっとおかしいと思うんですよ。子どもは自由にのびのび育つ権利があります。もちろん、親の考えで育てていることもあるでしょうが、子どもはもっと多様性、選択の自由をもってていいとおもいます。 ですから、自分の意見を言って、他人の意見を容認して深く考えることを していったらいいと思います。日本に帰ってるといろいろ気になってたことです、どうもありがとうございました。 ●(女性) そうよね、小さい頃はしょっちゅう交通も停まってて、学校の授業も校長先生や教頭先生が来てしてくれてた。 ところが、若い子たち20代の子たちはストライキをしらないんですよ。でも、ストをしないと、お給料が上がらないですね。
● MIKIさん(在独の女性)
ドイツ在住ドイツは今値上げが激しいんで、今年ほんと強引に毎週でもストライキしています。でも、それぐらいやって、はじめて民主主義だと私は思うんですよね。 ですから、ほんとストライキをしないのが悪いんですよ。でも、本当に日本は教育がそうなんですわ。たとえば、ドイツは戦争で徴用した人たちを一人一人に、国が確かめながら弁償してるんですよ。日本は、国自身がやり方を変えないと、どうにもならんですわ。
● 池辺幸惠 そうです、戦後、岸信介が副総理の時、総理を石橋湛山が短期間していました。民間の新聞記者もしていた石橋湛山はとてもまっとうな誠心誠意の良識のある方で、他の民族も尊重して植民地にはしないで、自由で互いに尊重し生かし合う貿易を、と経済にも明るかったです。あの時代に、侵略はしないで、日本人は頭脳と人間で、労働力と知性で地方分権で自立すれば、人も経済も活性化してゆく、という ほんものの新たな民主主義をと日本中を講演してまわっていて、とうとう倒れたのです。 すると、副総理だった岸信介が総理になって アメリカの言う通りの独裁者になって”日米安全保障”ができたのです。それの反対に日本では若者も熱くなって日本で”最大の安保反対のデモ”が起きました。女学生も一人デモで亡くなりました。
● Mさん 在独女性 松本清張さんが、日本の古代史を解明してゆく小説で、天皇が神武天皇からつながっているのはウソだろうと、いろいろ推理してあばいてゆく、そういう本がありましたよ。
●男性 (とても聞き取りにくくて・・・、)組合を作って労働者を守る活動をしてきたが・・・・・、今は、組合をつくっても腰砕けになる。すぐ第二組合ができて会社と手をつなぐので闘えないです。 これから戦争を無くするには実際にどうしたらいいか、それが問題だ。
●男性 日本は戦争に負けることはない、なぜなら神風が吹くからだ。と言われ、日本人は疑いもせず信じ込んでいたようです。
●池辺幸惠 正力松太郎もCIAだったし、フィクサーの児玉誉士夫も日本の負け戦の戦争をウソついてまで勝てると煽って長引かせて儲けて、いろいろ裏で糸をひいてたと思いますね。ソ連が8月に参戦することは、ヤルタ会談ですでにきまってましたしね。
日本全国が、どれだけ空襲でやられたことか、わたしの郷里福山は8月8日に焼け野原になってしまいました。日本は300回以上!!!空襲されて、70の都市は焼け野原になり、一般市民はいのちも財産もなくしましたし、たとえ死んでも負傷して障害者になっても国はなんの賠償もしてくれません。
国民にはひたすら””受忍しろ””、とだけでなんの補償も賠償もないままです。でも、元上級将校たちにはいまでも孫にまで相当な年金をだしていますよ、戦争犯罪の最たる皇室も今も優雅なものです。 ですから亡くなった一般日本人約350万人は見捨てられたのです。そして日本軍は、侵略した朝鮮から中国大陸、そして南の島々の国々の住人たちをあわせて少なくとも2000万人以上も無惨に殺していたのでした。
現在も 2011.3.11ふくしま原発事故からの避難民しかり、自主避難者は見捨てられたままでなんの補償もありません。このたびのタンクに貯めてた放射能汚染水排出も、漁業組合のみなさんとの約束を破って勝手に流し始めました。こんな自分勝手な政治でいいわけないですね。
● 男性 87才 最後に広島での重大な局面の話を少しだけ言わせてください。国鉄は比治山の南に鉄道官舎があった。わたしは小学生で、ずっと奥に疎開していて助かった。3年生以下は全く勉強していない。登校して訓示があり教練があり下校だった。国鉄の助役の父は柳井から広島に通勤していた。
🔸ここから父親の手記「20年の早春のある日、広島の区長が、国鉄の助役以上幹部たちに「重大発表がある。日本は重大局面な局面を迎えた。皆んなが動揺せぬように堅い決意を持って全員を引き締めてもらいたい。今日の会議のことは口外してはならぬ。」と言った。「全員一人として動揺しないようにするのが君たちの任務だ」と強い口調で叱るように唾を飛ばして言った。目はすわっていた。私も緊張した。」 (父の手記より)
この1945年3月の時点で上の連中は敗戦を知っていた。そして「今の世の中(手記の10数年前)は1%の所有を存続するため核兵器の保有を望む者がいる」と父は言ってました。80才で克明な手記を書き残しました。
●池辺幸惠 その時分だけでなく、敗戦が濃くなると中央政府も軍部もなんとしても天皇のいのちを確保し 天皇制を維持することが命題だった。それは自分たちの自己防衛でもあった。わたしが思うには、その重大な局面の時に、天皇の命乞いと、何か!?! が、ひきかえにされたと思います。 それは、天皇のいのちとその体制を助けるかわりに、この戦争がいつ、どういうかたちで終結するかの話がアメリカとついたのがその3月頃で、広島の国鉄の幹部たちには「動揺するな口外するな、しかし覚悟しておけ」になったのでしょう。ですからその密約の内容は分からないままでも、この日本の重大局面の会議の話も口外できなくても、つまり(広島は!!!、敗戦の覚悟でいろいろ用意をするように)との、覚悟を持つようにと言われたのでした。 でも、重大発表だと集められて覚悟させられた その一部の幹部たちにも、その中身は明かされなかったのです。
もちろん、日本の庶民も一兵卒も何も知らされないままに、ただただ神風を信じて日本は負けはしないと思いこまされたまま、負け続ける戦争に今さらに出征させられて南の海の藻屑になり、若者も煽られて特攻隊に志願して片道切符で犬死させられ、庶民は一年以上にわたって空襲に焼かれていのちも財産もをとられ、それでも最後の一人まで撃ちてし止まんとばかりに竹槍訓練をさせられ、家を燃やすなとバケツリレーをし、バケツをかかえたまま業火に焼かれ、家の簡易防空壕では家族もろとも蒸し焼きにされ、B29の空襲から必死で逃げ惑うばかりだったのです。それはまさに地獄絵図でした。
●その言えない何か、とは何だったのでしょうか?!? これもMさんがお父様から聞かれたそうですが、4月には比治山の裏に東京の本部からの中央直属の司令部が用意されたそうです。もし原爆が投下されてもここなら大丈夫なのです。このことで軍都広島は当初より原爆投下の予定地にされていたのだろうと十分推測できます。でも原爆はなかなか完成しませんでした。そして完成するまで空襲は無惨にもつづけられたのです。
-----------------------池辺のまとめ----------------------
●そして、ようやく7/16日ニューメキシコ州の砂漠での原爆実験がされた日に、ポツダムで連合国の会議があって、核実験の完成を聞いてみなは歓喜したそうです。そして7月26日ポツダム宣言がだされました。しかし日本政府はまだ連綿としたまま空襲はつづき模擬原爆もいくつか落とされました。 そして、とうとう1945年8月6日に広島に原爆は落とされたのです。というのも原爆を乗せた飛行機を撃たないようにとの指令も出ていたのです。そして”無条件降伏? ポツダム宣言受諾”というシナリオ通りになりました。ソ連も原爆投下後の敗戦後には参戦するとの密約がされていたのです。
この原爆投下の人体実験は、アメリカが戦後 原子力で世界の優位をたもつため威信を示すのに必要だったのです。アメリカ国民に秘密裡に20億ドルを注ぎ込み急がせて作った原爆が完成した! その成果を、全世界にアメリカ国民にも納得させるためにも、広島・長崎に原爆が落とすことが必要だったのです。そしてそれは当日約35万人はいたと推測される一般市民や召集されて前の晩から来ていた軍人たちが、無惨にも人体実験されて虫けらのように燃やされ犠牲になったのです。嗟!!!!!!!
そして、アメリカは、まもなく比治山頂にABCCの研究所を作って、生き残った被爆者たちに原爆が人体に及ぼす研究材料にしました。治療はせず、ただ裸にしていろいろ調べるだけの、まさに虫けらのごとくの扱いでした。死んだ被爆者は解剖され、その臓器も たくさんの一つ目の奇形児たちもホルマリン漬けにされて、今もアメリカに並んでいるそうです。 アメリカはイエロージャップは人間じゃないの意識だったのでしょう。
かつて、日本が朝鮮人・中国・台湾人は野蛮で遅れてる下等な民族だから侵略し殺して奪って当然だと、日本人みなが国にマインドコントロールされていたように。アメリカは、日本人を有色の野蛮人だと見下していたから、あまたの空襲も原爆までも落として、日本を焼け野原にし一般市民の無差別大量虐殺ができたのでしょう。しかし、それは戦争犯罪の最たるものでした!!!
●しかし、池辺の思うに、いかな理由があろうとも、この原爆と異常にたくさんの空襲による、アメリカのこの残酷な一般市民大量殺戮の戦争犯罪を、日本の国自身がアメリカを糾弾し、検証して裁くことをしないままきていますが、これでいいのでしょうか? そもそもが、かつて朝鮮・中国をひどく貶めて、侵略で始まったあの大戦争は一体なんだったのでしょうか。
八紘一宇・五族共和を大義名分にして、徴兵されて兵隊になって、殺し殺され、天皇のためにと犠牲となった一般国民にとってあの戦争はどうだったのでしょうか・・・?! 国民自らが裁判をして戦争を問い検証し断罪をしないままできている日本の戦後の経緯は、戦争の芯からの反省もないままです。これでは民主主義になったとはとてもいえないでしょう。
あの大戦争に対して自ら裁判を起こし、その経緯と検証と証言、多大な犠牲の追求の確認や認定・補償も反省の総括もなにもされていないまま、表明もされないままです。 結局戦勝国の連合国による勝者の東京裁判だけでよしとするのですか? だから、結局、朝鮮・中国・アジアの国々・島々への日本軍の残酷な大量殺戮への謝罪も補償も明らかにされないままできています。日本の国が、長きにわたる侵略戦争の総括の裁判もしないままで、まいど1937年の河野洋平官房長官の談話、そして1995年8月15日の村山富市首相の謝罪の談話だけで済ませれるものでは決してないでしょうに?!? 恥知らずのまま居直り強盗になっているアメリカの傀儡 岸田軍事独裁自民党政権です。
●結局、あの大戦争を引き起こした自らの検証をしないままで、連合国による東京裁判だけですませている日本政府の態度では、真の反省がなされたとは、とうてい言えないでしょう。ですから、自らを断罪する気持ちのないまま、つまり戦争への反省も検証も裁判もないままですから、結局侵略戦争の意識はそのままに、戦後に戦前の天皇宗主からアメリカ宗主へと移し替えられて、同様にマインドコントロールされたままアメリカの占領国のままできているといえる現在の日本です。
それは、戦後の日本が、自民党政治が憲法を遵守しないで、平和憲法を貶めたまま数々の戦争立法をつくり、現在では月2回の日米合同委員会というアメリカ軍の指令のままにアメリカの言うなりの政治を行なってきていることからわかります。 日本の領海も領空も本土すら、すべてアメリカ軍に占領されている日本は、いまだにアメリカの占領国であることは明白です!!!
まして、アジアの国々にとっても、かつての西欧による植民地支配の検証についての裁判もないままではないでしょうか? いいえ、むしろ、西欧と連合軍として日本と戦ったアジアの国々は、日本がボロボロに負けたことで自信と勢いがついて、それまで植民地にされていたことへの猛反発から日本の敗戦を契機に自分たちの独立へと向けての戦いがはじまったといえましょう。日本がアジアの開放のために戦ったとは、大間違い!!! 負けた日本軍は西欧に戻すべくして撤退したのです。ですから決して日本がアジアの植民地を開放したわけではなかったのです。
●だから過去の侵略戦争の反省のないままで、戦後78年たった今、再び あの酷い軍国主義が息を吹き返してきているのが、日本の現状といえましょう。戦前のガラパゴスのままの意識やゾンビたちがいまだに政治のトップに君臨したままの日本なのです。これだから日本はいつまでたっても、アメリカに占領されたままだと言えるでしょう。
そして、隣国といえば日清戦争後の1895年に植民地にした台湾は、1945年までの50年間ずっと日本の植民地で大変な目にあってきた。そして、朝鮮も韓国も明治以来搾取されつづけてとうとう1910年には日韓強制併合で植民地にされた。また1923年の関東大震災では、10万5千人の死者を出しながら官憲のデマにより在郷軍人と一般市民が自警団を作って、朝鮮人等を数千人も集団殺戮をしてまわった事実を政府側はいまだに認めようとしない。
●そして1931年9月18日には、関東軍の自作自演の柳条湖事件を起こして満州事変とし、翌年満州国を建国した。日本政府は満州は日本の生命線だとして、満州に向けて各県に移民を割り当て日本から移民を大量に送り込んだ。それも朝鮮半島の農民は日本に農地をだまされて取り上げられて、満州や日本に仕事を求めていくしかなかったのです。それが徴用工や慰安婦問題へとなってゆくのです。そして1937年7月7日には盧溝橋事件を起こして日中戦争が始まった。そして日本は中国への戦争からアジア全土とインドや南の島々の国々にも戦争を拡大していった。
そして、とうとう1941年12.8.の真珠湾攻撃から半年後、南の島々は次々に玉砕しながらも、アジアでは残酷な侵略戦争と捕虜たちへの酷い仕打ち、敗戦につぐ敗戦なのに、国民には勝っているとウソをつきつづけ、とうとうアメリカに完膚無きまで焼き尽くされ原爆も投下されて敗戦になった。
この戦争の検証とそれに至るまでの真実を自らで明らかにし断罪する裁判を、日本はいつになったら自ら裁くことができるのでしょうか。 それが確かになされないままだから、只今”にせものの積極的平和” が喧伝され、アメリカのいうなりに再び「武力による平和?!?」= 戦争へと向かっている まさに危険な崖っぷちにいる日本なのです。
(文責 池辺幸惠)
宝塚市在住(現在神戸市)の西澤愼氏(87歳)が満州引き揚げ体験と伯母の広島被爆体験を話されました。 証券会社勤務の父親が株式の統制で失業、満州進出のポスターを見て満州に渡り、現地招集され、敗戦となり母子で集団逃避行を繰り返し、冬が来ても日本から救援船は来ないので、栄養失調やチフス、凍死がたくさん出た。中国と米国の世話で帰国した。 「あの戦争はまだ続いていると思っている。あれだけ“満州は生命線”と煽っておいて棄民政策でわたしたちは捨てられた。補償もない。まだ終わってない!!!」「敵基地攻撃など政治家が平気で言う現在の状況を問いたい。体験者がいなくなるから、若い人に継承してほしい」と訴えた。
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原爆と戦争展 2023.8.11. 午後からの「話し合い」と 「感想」等
最初はマイクの調整が悪くてひびきすぎて大変聞き取りにくかった。録音も同様で話の半分も聞き取れない。しかし、戦争に関しては、一人一人に忘れられない記憶とドラマがあるのだな、そして隠されていた真実も出てくる!!!、とあらためて話し合うことの大切さを思い知りました。
● Mさん 87才 国鉄に勤務しておられて広島で被曝したお父様の手記を読み上げてらした。8月6日の当日は、出勤してドアを開けた時に光がはじけた。けれど、執務室の遮光カーテンにさえぎられて全くなんともなかった。一瞬の光だけであとは音もなくしずかだった。それから、傷ついた人たちがたくさんそれぞれに悲惨な様子で歩いてきて、広島駅周辺の悲惨な様子を生々しく手記に書かれていた。そして原爆の後もできるだけ汽車を走らせようとなさった、そのご苦労の数々の一部をよみあげてくださった。
● Uさん 92才 大阪の十三でで、B29が襲ってくる焼夷弾の下を走って逃げて母と手をつないで、トンネルの中にぎゅうぎゅうづめ。ところが、後、わたしの家だけ焼けてなかった。それから、親の実家の広島の南の呉市の山の上のおばあさんのところに疎開にいきました。 そして6日の朝、庭に出た時、ピカッと光って、耳がツンと鳴って、そして真っ白い雲が下からどんどん どんどんわいてきて、のびあがってきました、きのこ雲でした。火薬庫が爆発したとかデマが流れたりしたが、下の赤十字病院にどんどん負傷者が運ばれてきて大変だとわかった。わたしも叔母たちともっと南の方へと歩いて逃げた。敗戦のあと、大阪の女学校に復学しましたが、新聞をたたんだような教科書で、勉強よりなすやきゅうりやかぼちゃの食べ物ばかりつくってました。 そして今、怖いですねぇ、新聞を開けると武器の字がたくさんあって、また戦争に向かおうてしているこのご時勢がとても怖いです。
● Pさん 87才(在日2世) 終戦ではなく敗戦である。8月15日は天皇の玉音放送(ポツダム宣言受諾)であって、9月2日に降伏署名をした。そして連合軍による国連憲章には日本はドイツ、イタリアとともに「敵国」条項がある。だのに日本政府はそれを認めてない。そして現在は戦争へと軍備も軍事費も拡大してすすんでいる。南の島はすべて軍島になってしまった。この戦争に向かう流れをどう総括するのか。 そして、韓国の被爆者の方々への補償はある程度みとめられたらしいが、朝鮮人の被爆者には何ひとつなんの補償もない。朝鮮に対して、国としての謝罪も補償も何もないままです。 その上アメリカのプロパガンダそのままに国交断絶して、ロケットを日本をねらうミサイルだと偽って日本国民への脅しにつかっています。 朝鮮、南朝鮮、中国、世界の流れを総轄して、あの侵略戦争の反省と謝罪と日本軍の戦争犯罪をしっかり明らかにして、日本軍慰安婦へも徴用工への個人補償も、きちんと今からでもはっきりさせて賠償すべきだと思います。 8月15日は敗戦です。本当は9月2日の敗戦で終わったのです。そして敗戦を終戦だと言わないでほしい。
● Nさん. (女性) 80代 私は神戸の大空襲も経験しています。戦争は、武器を作って売ってお金儲けしてる人たちがたくさんいるのですね。そういう人がいるかぎり、戦争は絶対になくなりません。でも、そういう人間がいることも、これまで知りませんでした。 知らなくてもいいんじゃないかと思いながらも、いろいろ見せて貰ってびっくりしています。そういう無知なわたしがいます。 でも一番たいせつなのは、憲法9条を守って戦争をしないということですね。憲法9条ってほんと宝ですよね。
● (女性) 60代 わたしの父は中国に戦争に行きまして、それこそ軍人恩給もらうほど長いこといました。で帰ってから結婚して大阪大空襲にあいました。父は自転車に布団や荷物を積んで逃げてました。それから2回目の招集で、父は鳥取に行って砂丘で泳いでたそうですが、その時に広島のほうから、すごい雲が来たそうです、それが原子雲だったのです。で、同期で入隊した二人は広島に行かされて被曝して亡くなった。父はほんとうに愚かな戦争だったと言ってました。「日本は加害者だった、でも日本もひどいことをしてる。だからといって、原爆を落としたアメリカはひどい」と言ってました。 二度と戦争はない世の中になってほしいと言ってました。
● (女性) 80代 農家にいたんですが、2歳の頃だったんですが、畑の真ん中に穴を掘って、防空壕にしてたんですね。そこにおばさんに放り投げられて入れられた記憶があります。深い穴でトンネルになっていました。その記憶が残っています。
●(男性) 80代
玄関に防空壕を掘っていた、が警戒警報がなって空襲警報になったら、家族がみなその掘った穴の中にはいるんですね。 で、外をみたら焼夷弾が花火のようにふってきてました。飛行機が一機落ちてくるんですよ。で、操縦士は亡くなりましたがね、高射砲を打ってもB29には まったくあたらないんですよ、その鉛の塊がもいくつも落ちてきて、それはしょっちゅうあって危なかったです。
●. (女性) わたしの母は、母が生まれる前に祖父が出征して中国に行って戦死しておりまして、母は父の顔も知らないんです。で、祖父は出征する時に弟さんに、俺になにかあったら嫁さんを頼むぞと、それで祖母は弟さんと再婚しました、で弟たちとは父親がちがうんです。 わたしの夫の父親は出征して生き残ってもどってきました、がこの祖父もわたしの祖父と同じ言をのこしまして、そういのを逆縁というのですか、それでいろいろあったみたいです。 わたしの母親の母である祖母も、最初の夫の長男はロシアで死んだんですが、お墓は中は空でも立派なのが建てありました。その隣に祖父の墓もあるんですね。ところが、わたしの姉が言うには、「おばあちゃんはお風呂からでてきたら、いつもきれいにお化粧をするのよ」で聞いてみたら、その最初の夫と夢の中で会うから、きちんとお化粧しとくのです、って・・・兄弟が戦死した時に、残された妻はいろいろ辛い悲しい目にもあったのだなあ・・・と思いました。
● MIKIさん (在独の女性) 70代 平和教育はもちろん大切ですが、平和教育以上にまず日本人が一番すべきなのは、民主主義教育というか「人々が自分の意見を言う、そして、言う人を差別しない」 他人を容認することが重要だと思います。それが日本人には一番欠けていると思います。 そして日本はストライキしないのがおかしいです。日本の若い子が「なんでこんな迷惑のかかることをするのか」とばかりいってましたが。日本はブラック企業だと言いながらも、ストライキもなにもしない。言ってる人は限定されてたり。 でも、ドイツはしょっちゅうやっています。ストライキをするから給料が上がるんです。労組の腐敗があるかもしれないが、 今、必要なのはみんな自分たちの意見を素直に言う。そしてその素直に言ったことが、たとえ多少暴力的な言葉であったり差別的だったかもしれない、でもそれを容認する寛容性というのが、今日本には必要だと思います。 それに日本はマナー警察みたいなことばかり。どこにいっても、ああしろこうしろとアナウンスしたり張り紙がたくさんあったり。もちろんマナーは大切ですけれど、それは個々人が自分ですべきことであって、人から強制されてやることではないと思います。マナーや習慣は自分が自然にやるもので、人から強制されてやることは指令を受けてすることでしょう。 でも、それでしつけができていない、とか日本は親の責任だという。 これもちょっとおかしいと思うんですよ。子どもは自由にのびのび育つ権利があります。もちろん、親の考えで育てていることもあるでしょうが、子どもはもっと多様性、選択の自由をもってていいとおもいます。 ですから、自分の意見を言って、他人の意見を容認して深く考えることを していったらいいと思います。日本に帰ってるといろいろ気になってたことです、どうもありがとうございました。 ●(女性) そうよね、小さい頃はしょっちゅう交通も停まってて、学校の授業も校長先生や教頭先生が来てしてくれてた。 ところが、若い子たち20代の子たちはストライキをしらないんですよ。でも、ストをしないと、お給料が上がらないですね。
● MIKIさん(在独の女性)
ドイツ在住ドイツは今値上げが激しいんで、今年ほんと強引に毎週でもストライキしています。でも、それぐらいやって、はじめて民主主義だと私は思うんですよね。 ですから、ほんとストライキをしないのが悪いんですよ。でも、本当に日本は教育がそうなんですわ。たとえば、ドイツは戦争で徴用した人たちを一人一人に、国が確かめながら弁償してるんですよ。日本は、国自身がやり方を変えないと、どうにもならんですわ。
● 池辺幸惠 そうです、戦後、岸信介が副総理の時、総理を石橋湛山が短期間していました。民間の新聞記者もしていた石橋湛山はとてもまっとうな誠心誠意の良識のある方で、他の民族も尊重して植民地にはしないで、自由で互いに尊重し生かし合う貿易を、と経済にも明るかったです。あの時代に、侵略はしないで、日本人は頭脳と人間で、労働力と知性で地方分権で自立すれば、人も経済も活性化してゆく、という ほんものの新たな民主主義をと日本中を講演してまわっていて、とうとう倒れたのです。 すると、副総理だった岸信介が総理になって アメリカの言う通りの独裁者になって”日米安全保障”ができたのです。それの反対に日本では若者も熱くなって日本で”最大の安保反対のデモ”が起きました。女学生も一人デモで亡くなりました。
● Mさん 在独女性 松本清張さんが、日本の古代史を解明してゆく小説で、天皇が神武天皇からつながっているのはウソだろうと、いろいろ推理してあばいてゆく、そういう本がありましたよ。
●男性 (とても聞き取りにくくて・・・、)組合を作って労働者を守る活動をしてきたが・・・・・、今は、組合をつくっても腰砕けになる。すぐ第二組合ができて会社と手をつなぐので闘えないです。 これから戦争を無くするには実際にどうしたらいいか、それが問題だ。
●男性 日本は戦争に負けることはない、なぜなら神風が吹くからだ。と言われ、日本人は疑いもせず信じ込んでいたようです。
●池辺幸惠 正力松太郎もCIAだったし、フィクサーの児玉誉士夫も日本の負け戦の戦争をウソついてまで勝てると煽って長引かせて儲けて、いろいろ裏で糸をひいてたと思いますね。ソ連が8月に参戦することは、ヤルタ会談ですでにきまってましたしね。
日本全国が、どれだけ空襲でやられたことか、わたしの郷里福山は8月8日に焼け野原になってしまいました。日本は300回以上!!!空襲されて、70の都市は焼け野原になり、一般市民はいのちも財産もなくしましたし、たとえ死んでも負傷して障害者になっても国はなんの賠償もしてくれません。
国民にはひたすら””受忍しろ””、とだけでなんの補償も賠償もないままです。でも、元上級将校たちにはいまでも孫にまで相当な年金をだしていますよ、戦争犯罪の最たる皇室も今も優雅なものです。 ですから亡くなった一般日本人約350万人は見捨てられたのです。そして日本軍は、侵略した朝鮮から中国大陸、そして南の島々の国々の住人たちをあわせて少なくとも2000万人以上も無惨に殺していたのでした。
現在も 2011.3.11ふくしま原発事故からの避難民しかり、自主避難者は見捨てられたままでなんの補償もありません。このたびのタンクに貯めてた放射能汚染水排出も、漁業組合のみなさんとの約束を破って勝手に流し始めました。こんな自分勝手な政治でいいわけないですね。
● 男性 87才 最後に広島での重大な局面の話を少しだけ言わせてください。国鉄は比治山の南に鉄道官舎があった。わたしは小学生で、ずっと奥に疎開していて助かった。3年生以下は全く勉強していない。登校して訓示があり教練があり下校だった。国鉄の助役の父は柳井から広島に通勤していた。
🔸ここから父親の手記「20年の早春のある日、広島の区長が、国鉄の助役以上幹部たちに「重大発表がある。日本は重大局面な局面を迎えた。皆んなが動揺せぬように堅い決意を持って全員を引き締めてもらいたい。今日の会議のことは口外してはならぬ。」と言った。「全員一人として動揺しないようにするのが君たちの任務だ」と強い口調で叱るように唾を飛ばして言った。目はすわっていた。私も緊張した。」 (父の手記より)
この1945年3月の時点で上の連中は敗戦を知っていた。そして「今の世の中(手記の10数年前)は1%の所有を存続するため核兵器の保有を望む者がいる」と父は言ってました。80才で克明な手記を書き残しました。
●池辺幸惠 その時分だけでなく、敗戦が濃くなると中央政府も軍部もなんとしても天皇のいのちを確保し 天皇制を維持することが命題だった。それは自分たちの自己防衛でもあった。わたしが思うには、その重大な局面の時に、天皇の命乞いと、何か!?! が、ひきかえにされたと思います。 それは、天皇のいのちとその体制を助けるかわりに、この戦争がいつ、どういうかたちで終結するかの話がアメリカとついたのがその3月頃で、広島の国鉄の幹部たちには「動揺するな口外するな、しかし覚悟しておけ」になったのでしょう。ですからその密約の内容は分からないままでも、この日本の重大局面の会議の話も口外できなくても、つまり(広島は!!!、敗戦の覚悟でいろいろ用意をするように)との、覚悟を持つようにと言われたのでした。 でも、重大発表だと集められて覚悟させられた その一部の幹部たちにも、その中身は明かされなかったのです。
もちろん、日本の庶民も一兵卒も何も知らされないままに、ただただ神風を信じて日本は負けはしないと思いこまされたまま、負け続ける戦争に今さらに出征させられて南の海の藻屑になり、若者も煽られて特攻隊に志願して片道切符で犬死させられ、庶民は一年以上にわたって空襲に焼かれていのちも財産もをとられ、それでも最後の一人まで撃ちてし止まんとばかりに竹槍訓練をさせられ、家を燃やすなとバケツリレーをし、バケツをかかえたまま業火に焼かれ、家の簡易防空壕では家族もろとも蒸し焼きにされ、B29の空襲から必死で逃げ惑うばかりだったのです。それはまさに地獄絵図でした。
●その言えない何か、とは何だったのでしょうか?!? これもMさんがお父様から聞かれたそうですが、4月には比治山の裏に東京の本部からの中央直属の司令部が用意されたそうです。もし原爆が投下されてもここなら大丈夫なのです。このことで軍都広島は当初より原爆投下の予定地にされていたのだろうと十分推測できます。でも原爆はなかなか完成しませんでした。そして完成するまで空襲は無惨にもつづけられたのです。
-----------------------池辺のまとめ----------------------
●そして、ようやく7/16日ニューメキシコ州の砂漠での原爆実験がされた日に、ポツダムで連合国の会議があって、核実験の完成を聞いてみなは歓喜したそうです。そして7月26日ポツダム宣言がだされました。しかし日本政府はまだ連綿としたまま空襲はつづき模擬原爆もいくつか落とされました。 そして、とうとう1945年8月6日に広島に原爆は落とされたのです。というのも原爆を乗せた飛行機を撃たないようにとの指令も出ていたのです。そして”無条件降伏? ポツダム宣言受諾”というシナリオ通りになりました。ソ連も原爆投下後の敗戦後には参戦するとの密約がされていたのです。
この原爆投下の人体実験は、アメリカが戦後 原子力で世界の優位をたもつため威信を示すのに必要だったのです。アメリカ国民に秘密裡に20億ドルを注ぎ込み急がせて作った原爆が完成した! その成果を、全世界にアメリカ国民にも納得させるためにも、広島・長崎に原爆が落とすことが必要だったのです。そしてそれは当日約35万人はいたと推測される一般市民や召集されて前の晩から来ていた軍人たちが、無惨にも人体実験されて虫けらのように燃やされ犠牲になったのです。嗟!!!!!!!
そして、アメリカは、まもなく比治山頂にABCCの研究所を作って、生き残った被爆者たちに原爆が人体に及ぼす研究材料にしました。治療はせず、ただ裸にしていろいろ調べるだけの、まさに虫けらのごとくの扱いでした。死んだ被爆者は解剖され、その臓器も たくさんの一つ目の奇形児たちもホルマリン漬けにされて、今もアメリカに並んでいるそうです。 アメリカはイエロージャップは人間じゃないの意識だったのでしょう。
かつて、日本が朝鮮人・中国・台湾人は野蛮で遅れてる下等な民族だから侵略し殺して奪って当然だと、日本人みなが国にマインドコントロールされていたように。アメリカは、日本人を有色の野蛮人だと見下していたから、あまたの空襲も原爆までも落として、日本を焼け野原にし一般市民の無差別大量虐殺ができたのでしょう。しかし、それは戦争犯罪の最たるものでした!!!
●しかし、池辺の思うに、いかな理由があろうとも、この原爆と異常にたくさんの空襲による、アメリカのこの残酷な一般市民大量殺戮の戦争犯罪を、日本の国自身がアメリカを糾弾し、検証して裁くことをしないままきていますが、これでいいのでしょうか? そもそもが、かつて朝鮮・中国をひどく貶めて、侵略で始まったあの大戦争は一体なんだったのでしょうか。
八紘一宇・五族共和を大義名分にして、徴兵されて兵隊になって、殺し殺され、天皇のためにと犠牲となった一般国民にとってあの戦争はどうだったのでしょうか・・・?! 国民自らが裁判をして戦争を問い検証し断罪をしないままできている日本の戦後の経緯は、戦争の芯からの反省もないままです。これでは民主主義になったとはとてもいえないでしょう。
あの大戦争に対して自ら裁判を起こし、その経緯と検証と証言、多大な犠牲の追求の確認や認定・補償も反省の総括もなにもされていないまま、表明もされないままです。 結局戦勝国の連合国による勝者の東京裁判だけでよしとするのですか? だから、結局、朝鮮・中国・アジアの国々・島々への日本軍の残酷な大量殺戮への謝罪も補償も明らかにされないままできています。日本の国が、長きにわたる侵略戦争の総括の裁判もしないままで、まいど1937年の河野洋平官房長官の談話、そして1995年8月15日の村山富市首相の謝罪の談話だけで済ませれるものでは決してないでしょうに?!? 恥知らずのまま居直り強盗になっているアメリカの傀儡 岸田軍事独裁自民党政権です。
●結局、あの大戦争を引き起こした自らの検証をしないままで、連合国による東京裁判だけですませている日本政府の態度では、真の反省がなされたとは、とうてい言えないでしょう。ですから、自らを断罪する気持ちのないまま、つまり戦争への反省も検証も裁判もないままですから、結局侵略戦争の意識はそのままに、戦後に戦前の天皇宗主からアメリカ宗主へと移し替えられて、同様にマインドコントロールされたままアメリカの占領国のままできているといえる現在の日本です。
それは、戦後の日本が、自民党政治が憲法を遵守しないで、平和憲法を貶めたまま数々の戦争立法をつくり、現在では月2回の日米合同委員会というアメリカ軍の指令のままにアメリカの言うなりの政治を行なってきていることからわかります。 日本の領海も領空も本土すら、すべてアメリカ軍に占領されている日本は、いまだにアメリカの占領国であることは明白です!!!
まして、アジアの国々にとっても、かつての西欧による植民地支配の検証についての裁判もないままではないでしょうか? いいえ、むしろ、西欧と連合軍として日本と戦ったアジアの国々は、日本がボロボロに負けたことで自信と勢いがついて、それまで植民地にされていたことへの猛反発から日本の敗戦を契機に自分たちの独立へと向けての戦いがはじまったといえましょう。日本がアジアの開放のために戦ったとは、大間違い!!! 負けた日本軍は西欧に戻すべくして撤退したのです。ですから決して日本がアジアの植民地を開放したわけではなかったのです。
●だから過去の侵略戦争の反省のないままで、戦後78年たった今、再び あの酷い軍国主義が息を吹き返してきているのが、日本の現状といえましょう。戦前のガラパゴスのままの意識やゾンビたちがいまだに政治のトップに君臨したままの日本なのです。これだから日本はいつまでたっても、アメリカに占領されたままだと言えるでしょう。
そして、隣国といえば日清戦争後の1895年に植民地にした台湾は、1945年までの50年間ずっと日本の植民地で大変な目にあってきた。そして、朝鮮も韓国も明治以来搾取されつづけてとうとう1910年には日韓強制併合で植民地にされた。また1923年の関東大震災では、10万5千人の死者を出しながら官憲のデマにより在郷軍人と一般市民が自警団を作って、朝鮮人等を数千人も集団殺戮をしてまわった事実を政府側はいまだに認めようとしない。
●そして1931年9月18日には、関東軍の自作自演の柳条湖事件を起こして満州事変とし、翌年満州国を建国した。日本政府は満州は日本の生命線だとして、満州に向けて各県に移民を割り当て日本から移民を大量に送り込んだ。それも朝鮮半島の農民は日本に農地をだまされて取り上げられて、満州や日本に仕事を求めていくしかなかったのです。それが徴用工や慰安婦問題へとなってゆくのです。そして1937年7月7日には盧溝橋事件を起こして日中戦争が始まった。そして日本は中国への戦争からアジア全土とインドや南の島々の国々にも戦争を拡大していった。
そして、とうとう1941年12.8.の真珠湾攻撃から半年後、南の島々は次々に玉砕しながらも、アジアでは残酷な侵略戦争と捕虜たちへの酷い仕打ち、敗戦につぐ敗戦なのに、国民には勝っているとウソをつきつづけ、とうとうアメリカに完膚無きまで焼き尽くされ原爆も投下されて敗戦になった。
この戦争の検証とそれに至るまでの真実を自らで明らかにし断罪する裁判を、日本はいつになったら自ら裁くことができるのでしょうか。 それが確かになされないままだから、只今”にせものの積極的平和” が喧伝され、アメリカのいうなりに再び「武力による平和?!?」= 戦争へと向かっている まさに危険な崖っぷちにいる日本なのです。
(文責 池辺幸惠)
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/Users/peace.yukichan/Desktop/■■写真入チュチェメキシコ感想のコピー2.pdf
池辺幸惠 平和のピアニスト 2023.3.21
/Users/peace.yukichan/Desktop/スクリーンショット 2023-03-26 18.48.02.png1950年12月生 広島県福山市北吉津町出身・樹徳小・広島大学付属福山中・大阪教育大付属高校池田校舎卒業。大阪芸術大学音楽部ピアノ科全額免除生・総代で卒業。大阪教育大学大学院修士修了・ 大阪芸術大学に講師で勤務。関西音大新人コンサート・日本演奏連盟推薦第14 回ヤマハ Jリサイタル、 毎日ホール・サンケイホール・いづみホール等で、大阪フィルやニューフィルハーモニック大阪等と“ピアノ協奏曲を協演。 河原浩、北野完一、横井和子、ジョルジュ・アゴナシュヌに師事
1973年日本演奏連盟推薦第14 回ヤマハ J.リサイタル 1974年リストのピアコン手塚幸紀大フィル
1981年子育てのため大学を退職、東京に転居下北沢の日本CI協会桜沢如一の食養の理論と実践
1983年尼崎市でピアノ教師ヤマハグレード講師、関西フリースクール研究会会長で活躍
1985年屋久島の農園で4人目を自然出産 2年間六甲山頂で暮らす。1987年茨木市山手台で2反の畑を耕しながら、共同保育・自然食のコピーライター。この時分 純粋意識の離脱体験をし閃光を放って爆発至福の歓喜に満たされる「暮らしと給食をみなおす会」をたちあげ学校給食改善の取り組み
1989年神戸市灘区篠原に転居 ”本物を感じる会”を始める。小川茂年さんの手技手当て操法・母子のセミナー・本音を語り合う会、食養・陰陽五行・エゴギョウ・気質人間学セミナー等々開催
1991年6月~7月 家族で一ヶ月半かけてモーターホームでアメリカ横断旅行
1995(H7) 1.17 阪神淡路大震災!に遭遇、すぐ震災ボランティアを初め、4月からは灘区震災ボランティア「ひまわりネットワーク」を立ち上げ、3年間代表として震災コーディネーターで活躍
1996・97年 仮設の子ら10人と北海道岩見沢のスキーツアー/夏は20人車トラックバスをつらねて北海道に交流ツアー
199810月~. 一人でヨーロッパ ユーレイルパスでBP旅行 独・墺・スイス・伊・西・仏・英を巡る
1999ピアノを再開し昔の大学の生徒たちが戻ってきた「陰陽リラックス奏法」で講演と実技指導
2001年 第4 回長江杯国際音楽コンクール1位なし2 位
2002年 第10 回アジアクラシックコンクール銀賞
2002年 第3回 中国音楽コンクール専門の部で金賞、神戸文化振興財団賞等受賞。
中国各地をコーラスと一緒に演奏旅行、 杭州音楽院・寧波市民会館で中国のピアノ曲を弾く。
2005年9月17日 いずみホールでショパンのピアノコンツェルト。指揮は橋本徹雄 N.F.Osaka
小林正也教授ときくちゆみさんの「野党共闘をめざす市民の風」のスタッフとして東京で活躍
2006.9.11 きくちゆみさんとニューヨークに行き9.11真相究明のデモと会合に参加。
2007年9月23日 9条の会「結成3周年の集い」 小森陽一さんと映像とピアノ尼崎市で
2007年11月3日 改装された中之島の公会堂で 憲法の日に辻井喬さんと映像とピアノ演奏
2008年4月西宮市大谷記念美術館で被爆平和コンサート・静岡県掛川市・熱海市でも2箇所・堺市西文化会館・明石生涯学習センターホール・草津人権協議会・新宮市の高校・広島折り鶴の祈りコンサート・奄美大島・広島YMCAホール・・・・平和コンサート広島・京都で海瀬頭豊さんと
2010年正月 海勢頭豊さんと沖縄久高島から初日の出を拝む。沖縄から平和行進に参加
2011年2月 仏のアングレット市で被曝の語り部森田節子さんが10回の語り、私は映像とピアノ
2011年3月12日~18日日本に帰って鹿児島と沖縄と宮古島で平和コンサートをしている時に、2011.3.11の福島原発事故がおきた!!!東京の娘とは屋久島のコンサートで合流した
2011年9月4日 高岡市生涯学習センターホールで「街- 過去・現在、そして未来へ」
2011年4月福島郡山で3.11の震災ボランティア・4月末にも京都の老人と一緒に被災地を見て回る
2012年4月 初訪朝し<4月春の国際親善芸術祭典>に出演 ディプロマ賞とクリスタルトロフィーを獲得
2012年8月8日 故郷福山市の市民平和のつどい「第58回市民平和大会」で平和コンサート。
2012年8/31~9月<アリラン大公演>の鑑賞のため再訪朝
2013年2月 堺市のサンスクエアホールで、92歳の小笠原美都子さんのチャリティーショー
2013年7月26日~30韓国に朝鮮戦争休止祝賀ツアー服部良一さん代表日韓友好シンポジウム
2013年8月1日~10日イスタンブールからウィーンへ東京メンネルコールの一員で参加。
2014年2月~ 日本チュチェ思想研究会代表団で訪朝、光明星節に出席。
2014年7.21. 3年目に教会の震災ボランティアに同乗して釜石に行き当時の写真や話を聞く
2014年8月 阪大講堂で石巻の震災以後の映像とピアノ、森松明希子さん デバラシさんとコラボ 2014年11.23宝塚ハートフル合唱団県立芸術劇場大ホール「ガイア永遠の輝き」に参加
2015年8.2 ~11 宝塚ハートフル合唱団で私も含む団員15人と被爆の語り部2人と、NYからワシントンDC.8/6ワシントン大学のリサイタルホールで広島・長崎戦後70周年平和記念式典コンサート8/9 ホワイトハウス前のライヴはNHKTVも撮影にきた。計6カ所で公演した。
2015年10月 朝鮮の10.10の労働党設立70周年の記念式典に出席
2016年1月10日「新春芸術と交流の夕べ」沖縄でディナーショー
2016年7月22日 治安維持法犠牲者国家賠償同盟7回総会で平和のコンサート・三木清追悼の歌 2017年8月31日~9月17日 夫とヨーロッパ旅行 ポーランド・独・蘭・仏・ヘルシンキ 2017年11月15日 “戦争を許さない女のつどい”で石川康宏さんとコラボ 生田文化会館 2018年1月14日ピアノ寄贈記念新春コンサート 合唱団池辺眞衣の歌池辺幸惠のピアノで2回公演 2018年3月2日 Spring Concert ポーランドからアンジェイ・ピクル教授を迎えて公演
2018年4月1日 春休みコンサートマリンバ.インドからの太鼓生徒たちの歌とピアノ金和美さん熱唱 2018年4月 朝鮮通信使ユネスコ世界記憶遺産登録記念シンポジウムでピアノ演奏と特別寄稿 2018年12月5日~6日 韓国大邱市での宝塚友好親善ツアーに参加 2019年2月 メキシコのチュチェ研究会全国大会に参加 ラテンの芸術歴史文化にふれる 2019年3月8日 女性デーに女性会議で平和コンサート公演、三宮勤労会館
2019年9月7日「小笠原美都子さんを偲ぶ会」300人出席 大阪のホテルアウィーナで開催 2019年10月27日「小笠原美都子さんを偲ぶ会」パート2を六甲学生青年センターで開催
2019年10月マンハイムで 娘の眞衣とコラボ2回、ドイツの教会3箇所でサロンコンサート
2019年6月 コロナ禍で予定の公演のキャンセルがつづく中 乳がん(ステージ2A)の手術
2021年1月26日 ハートフルとユネスコ合唱団のコンサート、県立芸文センター小ホール
202212月4日 シャボン玉童謡の会と宝塚ユネスコ後援で「野口雨情物語」公演 ベガホール
2023 2月 沖縄と東京、難波でチュチェ研究会全国セミナーでピアノと歌を公演
日本の子供たちの未来が、明るく平和に光かがやくように、日本の住民みなが安心して幸せに暮らせるように、地球上のすべての人々と、核のない戦争のない、安心と平和な未来を共有するために、今、日本のわたしたちは戦争放棄の日本国憲法9条を守り、それを世界に広め活かしてゆきたい。日本が原発禁止・核兵器廃絶へと向かうように信念をもって活動してゆきます. (池辺幸惠. 宝塚市仁川高台1-12-27 http://yukichan.cc)
★プロフィル☆ 池辺幸惠 平和のピアニスト 2023.3.21
広島県福山市北吉津町出身・広島大学付属福山中高から大阪教育大付属池田分校に転入。大阪芸術大学音楽部ピアノ科に入学、全額免除生・総代で卒業。大阪芸術大学に副手勤務・大阪教育大学大学院修士修了・ 大阪芸術大学に講師で勤務
小学校1年よりピアノを始めた。関西音大新人コンサート・日本演奏連盟推薦第14 回ヤマハ Jリサイタル、 毎日ホール・サンケイホール・いづみホール等で、大阪フィルやニューフィルハーモニー大阪等と“ピアノ協奏曲を協演。 河原浩、北野完一、田原冨子、横井和子、ジョルジュ・アゴナシュヌに師事
●S50 大学院の時に池辺眞行と結婚 S52からつづけて3人出産 S56年子育てのため大学退職
●東京の杉並区で下北沢の日本CI協会にて桜沢リマ・大森英櫻先生から桜沢如一の食養の理論と実践を学ぶ。関西に帰ってからも山本祥園先生について研鑽を積む。
●尼崎市にて巷のピアノ教師・ヤマハグレード講師・関西フリースクール研究会会長。
●1981年関西一円のフリースクールの仲間を連帯し、会員500名、全国フリースクール研合宿を島本町にて開催
●長男を屋久島の小学校に転入させ屋久島の農園で4人目を自然出産。3学期からは六甲山小学校に3人をいれる。
●茨木市山手台で2反の畑を耕しながら、共同保育・自然食のコピーライター。この時分 純粋意識の離脱体験をし閃光を放ち爆発至福の歓喜に満たされる「暮らしと給食をみなおす会」をたちあげ学校給食改善・食と暮らしの改善の活動
●神戸市灘区篠原に転居 ”本物を感じる会”を始める。本音を語り合う会・ 小川茂年さんの手技手当て操法・気質人間学講座等等々を毎月主宰する。アトピーネットワークにも参加
●教育への幅広い研鑽と実践、そして食養・陰陽五行・エゴギョウによる気質人間学のセミナーも開催
●1991年6月~7月家族で一ヶ月半かけてモーターホームでワシントンDC.からサンフランシスコまでアメリカ横断旅行
●1995(H7) 1.17 阪神淡路大震災!翌朝から震災ボランティアを初め、4月から灘区で震災ボランティア「ひまわりネットワーク」を立ち上げ3年間震災ボランティアで活躍する。
●1996年2月仮説の子ら10人が北海道岩見沢で駒澤大学の震災ボラの学生たちとスキー
●1997年8月仮説の子ら20数人と震災ボラたちとワゴン・小型トラック・マイクロバスで舞鶴からフェリーで小樽まで行き、北海道で10日間の交流ツァーをした。
●199810月~ 一人でヨーロッパを BPとユーレイルパスで旅行 。独・墺・スイス・伊・西・仏・英をめぐる
●1998 西宮に転居 林秀臣さん文明法則史学・大森英櫻先生の食養などのセミナーも開催。
●ピアノも再開し昔の大学の生徒たちが戻ってきた。「陰陽リラックス奏法」で楽器店などで講演と演奏指導をおこなう。発表会「ふれあいコンサート」も甲東園にて度々開催。
●2003年11月からは毎夏八ヶ岳の”詩游館”で「八ヶ岳ふれあいコンサート」を開催。
●孫弟子たちを7~8年あずかって5人を音楽大学に入学させた。私も演奏活動をはじめる。
2001 第4 回長江杯国際音楽コンクール1位なし2 位
2002 第10 回アジアクラシックコンクール銀賞
2002 第3回 中国音楽コンクール専門の部で金賞、神戸文化振興財団賞等受賞。中国各地をコーラスと一緒に演奏旅行、 杭州音楽院・寧波市民会館で中国のピアノ曲を弾く。
● 2002 中国の胡弓の青年 張剣さんと「ふれあいコンサート」で各地に演奏にまわる。
● 神戸の音楽喫茶でもサロンコンサートを始めた。バイオリンの李陽さんともジョイントライヴ。
● 2003年 豊中市ローズ文化ホールで中国の曲を3曲演奏
● 2005年9月17日いずみホールでショパンのピアノコンツェルトを弾くニューフィルハーモニック大阪指揮橋本徹雄
●夫が東京に単身赴任になり東京にも生徒のレッスンに行き、平和の集会に顔を出す。
●2001年9.11から日本と米国のさらなる接近が懸念されたので、千葉大の小林正也教授ときくちゆみさんが共同代表の「野党共闘をめざす市民の風」のスタッフとして活躍。
●2006.9.11 きくちゆみさんとニューヨークに行き9.11真相究明のデモと会合に参加。
●2007年11月3日 改築された中之島の公会堂で憲法の日に辻井喬さんと映像とピアノ演奏
●2007年9月23日 9条の会「結成3周年の集い」でも9条の会 小森陽一さんと映像とピアノ演奏
以来、あちこちの平和集会に被爆コンサートに加え、政治的な平和のピアニストとして映像とピアノと歌で活躍
●2008年4月西宮市大谷記念美術館で被爆平和コンサート被爆あおぎりの種子も配った。
●2011年その時配ったアオギリが無事育ち芦屋市打出小学校でアオギリの苗を植えて平和のライヴ
●2009年からは被爆ピアノとともに”被爆ピアノ平和コンサート”を関西一円の小中高学校や公民館など、関西でたくさんの公演をしてまわる。被爆映像とピアノ「みさこのピアノ」と歌の公演
●2009年10月 大阪女性の会の学習会で平和コンサート
●2010年正月 海勢頭豊さんと平和行進の仲間と沖縄久高島から初日の出を拝む。沖縄からの平和行進にトピック参加
●2010年3.27 広島で平和コンサート、京都で海瀬頭豊さんとコラボ、映像とピアノの平和ライヴ。
●2010年2月9日静岡県掛川市、7/10堺市西文化会館ホール、7/23明石生涯学習センターホール、8月草津人権協議会で平和コンサート、日本各地で被爆ピアノと平和コンサートをしてまわる。
●広島YMCAホールで講演前の平和コンサート各地で被爆者の方に被爆ピアノコンサート
●8/8広島市で折り鶴の祈りコンサート
●ところが、郷里福山市の母親が交通事故に遭い毎週郷里に通うことになって、公演に十分対応できなくなってきた。とうとう母を西宮にひきとり毎日その世話に追われた。最終的には老人病院に入ってからは毎日通いましたが、とうとう亡くなって葬式を福山ですませた。
●2011年2月 フランスの南のアングレット市にて、バラントンひろみさんの尽力で被曝の語り部「非核特使」の森田節子さんが10回の公演。お城のホールで石橋和子さんと一緒に「平和コンサート」行きはパリに、帰りはローマに行く 。
●2011年3月12日~18日そして日本に帰って鹿児島と沖縄と宮古島で平和コンサートをしている時に、2011.3.11の福島原発事故がおきた。東京の娘とは屋久島のコンサートで合流
●2011年4月そこからは福島3.11の震災ボランティアです。すぐの4月に若いお母さんたちの車を運転し郡山のイベントにつきあって、ピッグパレットで茶話会の聞き取りボランティアをした。
●4月末にも京都のご老人が親戚に会いにゆきたいとご一緒し、被災地の生々しい惨状をワゴンで見てまわった。
●2011年9月4日 高岡市生涯学習センターホールで「街- 過去・現在、そして未来へ」
●2012年4月 朝鮮を初訪朝し<4月春の国際親善芸術祭典>に出演 ディプロマ賞受賞大山蓮華のクリスタルのトロフィー
●2012年5月 宝塚市に転居 息子夫婦と同居する。
●2012年8月8日 故郷福山市の第58回 市民平和のつどいで平和コンサート。ふくやまリーデンローズ大ホールにて
●2012年8/31~9月 <アリラン大公演>の鑑賞に再訪朝し日本の朝鮮への誤解と偏見を認識し不勉強な私を恥じた
●2013年2月 堺市のサンスクエアのホールで、92歳の小笠原美都子さんを囲んで朝鮮学校支援のチャリティー「歌はわが華」を開催。3月の誕生会にて日朝音楽芸術交流会会長を引き受ける
●2013年7月26日~30日 韓国に朝鮮戦争休止祝賀ツアー服部良一さん代表 ソウルで日韓友好シンポウム 臨津江観光
●2013年8月1日~10日イスタンブールからウィーンへ 東京メンネルコールの一員として参加。教会でコーラス公演
●2014年 1月23日 1月 沖縄の数カ所で「新春平和コンサート」を公演
●2014年2月 日本チュチェ思想研究会代表団の団長として朝鮮を訪問。光明星節に出席。
●2014年7.21.3年目に教会の震災ボランティアのワゴンに同乗して釜石に行き、大きな仮設住宅の聞き取りボランティアとお寺の和尚さんから当時の話や写真や震災の跡地を見てまわる
●2014年8月 阪大講堂で石巻の震災以後の映像の解説とピアノ演奏、森松明希子さんの震災の話デバラシさんの映像
●2014年11.23宝塚ハートフル合唱団県立芸術劇場大ホール「ガイア永遠の輝き」に以来ハートフル合唱団の伴奏者
●2015年8.2 ~11 宝塚ハートフル合唱団で私も含む団員15人と被爆の語り部2人と、NYからワシントンDC.に行き、ワシントン大のギャラリーでは丸木位里さんの原爆の図を展示しており8/6ワシントン大学のリサイタルホールで広島・長崎戦後70周年平和記念式典での被爆者の語りと原爆の映像で追悼の平和コンサート、8/9 ホワイトハウス前ではNHKTVも撮影にきた。そして他にも子どもたちの平和キャンプやアメリカの地方の街の2カ所でも、被爆者の語りと平和コンサートを計6カ所で公演してきました。
●2015年10月 朝鮮の10.10の労働党設立70周年の記念式典に出席
●2016年1月10日「新春芸術と交流の夕べ」沖縄でディナーショー
●2016年7月22日 治安維持法犠牲者国家賠償同盟7回総会で平和のコンサート 、三木清さん追悼の歌をうたう
●2017年5月5日. 川西みつなかホールそよ風コンサートで朝鮮の大曲”故郷のから松”を弾く
●2017年8月7日 南アフリカエラ・ガンジーさんを招いて ハートフル合唱団コンサート
●2017年8月31日~9月17日 夫とヨーロッパ旅行 ポーランド・ドイツ・オランダ・フランス・ヘルシンキ
●2017年10月7日 韓国釜山にて日朝の曲で平和コンサート
● <音楽と平和のつどい>を立ち上げ 池辺幸惠が主宰者 以来いくつものコンサートや「原爆と戦争写真展」等々開催
● 2017年11月15日 “戦争を許さない女のつどい”で石川康宏さんとコラボ. 生田文化会館
● 2017年12月7~8日 ソウル市で慰安婦像前に、教会のクリスマス公演と平和コンサートツアー
● 2017年12月11日~19日 金正淑女史の生誕100周年ツアーで平壌訪問
●2018年1月ピアノ寄贈記念新春コンサート合唱団と池辺眞衣池辺幸惠のピアノで2回公演
●2018年3月2日 Spring Concert ポーランドからアンジェイ・ピクル教授を迎えて公演
●2018年4月1日春休みコンサート、三上摂さんのマリンバ. インドからの太鼓 生徒たちの歌とピアノ等
小学6年生の弟子が子供の情景とラヴェルのソナチネ全曲演奏。金和美さんも熱唱!!!
●2018/4 朝鮮通信使ユネスコ世界記憶遺産登録記念シンポジウムでピアノ演奏と朝鮮通信使の特別寄稿
ー東アジアの文化友好と和解の共同体を求めてー
●2018年4月30日 オペラカルメン、ルナ・ホールでハートフル合唱団がバックコーラスに出演
● 革新懇で、映像とピアノの平和コンサート
●2018年12月5日~6日 韓国大邱市での宝塚友好親善ツアーに参加
●2018年2月 メキシコのチュチェ研究会全国大会に参加 ラテンの芸術歴史文化にふれる
●2019年3月8日 女性デーに女性会議で平和コンサート公演、三宮勤労会館
●2019年7月25日 小笠原美都子さんが、享年100才で死亡
●2019年9月7日 「小笠原美都子さんを偲ぶ会」を大阪のホテルアウィーナで開催 300人近くが集い追悼をした。
●2019年10月27日「小笠原美都子さんを偲ぶ会」パート2を六甲学生青年センターで開催
●2019年10月マンハイムのスタインウェイサロンで 娘の眞衣とコラボのサロンコンサートを2回行う。
● ドイツの教会の3カ所で(ミュンヘン・マンハイム )平和コンサートをする。ザルツブルグ音楽祭に行く。
● 2019年3月. インドのデバラシさんとカナダのピアニストを広島・沖縄を案内する
●2019年6月 コロナ禍で予定の公演のキャンセルがつづく中乳がん(ステージ2A)の手術
●2021年1月26日 ハートフルとユネスコ合唱団のコンサート、芸文センター小ホール
●202212月4日 シャボン玉童謡の会とユネスコ後援で「野口雨情物語」公演 ベガホール
●2023 2月 沖縄と東京のチュチェ研究会でピアノと歌を公演 住井すゑさんの記念館と野口雨情の記念館と実家に行く
ここまで書いてるのは、ちらしやDVDでのこってるぶんだけですが、 とても書ききれない細かな公演活動が抜けています。覚えているのにいつどこでだったか・・・分からない???
ここ2年はコロナ禍と乳ガン術後のせいで、けっこうおとなしくしていたけれど、毎月の年金者組合と視覚障害者の施設でのうたごえ会や毎週のシャボン玉童謡の会、毎年10月の公民館祭り、それなりにうちわの研究会等では度々ピアノと歌と公演と報告会と講演、研究会と冊子等の原稿作成に追われていたといっても過言ではない。 そして、わたしは、本虫なので、ほとんど毎日のように本を数時間読んでいる。徹夜しないで本読みを途中でやめれるようになったのは進歩か年か?!日々の読書(漫画から)から得たものは、わたしの人格形成に大いに役立っていると思っています。
対外的には、今は日朝音楽芸術交流会会長として、日朝間の音楽交流と・朝鮮の美しい音楽の普及に尽くそうとしています。あわせて朝鮮の自主自立・正義と平和を基調とする「人民が一番、人民に学び、人民に尽くす人民大衆第一主義」である”チュチェ思想”への研究と理解もすすめています。これまでも日本は少数民族を異民族として排斥同化政策をしてきました。しかしどの民族であれ民族としての尊厳を尊重し、人権・自決権と暮らしを守れるよう共存する国々は手助けをしてしかるべきでしょう。
それ以上に脚下照顧! 当の日本政府が、貧民や母子父子家庭 一人暮らし高齢者のケア介護の問題については、特に今の金持ちとに偏っている自民党政権からは見えない範疇であって、細やかな政治的配慮は皆無といっていい「しったこっちゃない」というわけです。差別と格差拡大が大問題になりつつある今、在日朝鮮人への理解と交流・支援にもできるだけ携わっていきたいし 身近にある朝鮮民主主義人民共和国への悪意ある偏見と誤解を解いてゆきたい。在日や・朝鮮学校の生徒たちへの差別と偏見をなくせるような政治へと応援し活動をしたいと思っています 。
同様に、日本における朝鮮・韓国、そしてアイヌや琉球の方々も同様に、これまでの日本人による偏見と差別の過去の酷い仕打ちについても、日本人一人一人が日本という国が彼らに一体何をしてきたかをよくよく知って理解し顧みてよく考え、心からのお詫びの気持ちを持たねばならないとわたしは思っています。これまでの日本の国としての態度をみた時、過去から今までの目をそむけたくなる事実も真摯に見つめ、そして、未来に向けて友好を築いてゆくにはどうすればよいのかを、わたしたち日本人として、いまだに目の前にある過去のありのままの事実を認識して真剣に考えてこそ、これまでの朝鮮・韓国への誤解や偏見も少しずつ解けてゆくと思います。
朝鮮・中国と同様に、沖縄への対応も歴史を十分にしらねばなりません。沖縄を足蹴にしてきた反省と米軍基地集中への反省と、琉球弧の島々を米軍基地の拠点の軍島にしてしまっている現状をよくよく見つめ、沖縄への尊厳を保ち自立への支援をして、これまでの日本との不幸な確執が溶けるように日本国民一人一人がよくその歴史を認識すべきでしょう。 辺野古 高雄や馬毛島の基地建設も同様に、なぜそんな不自然な工事を沖縄の反対を押し切ってまで続行しているのか?!?それは原発再開どうように利権ゆえのゴリ押しです。国内の少数民族の自立自決権を尊重してこれまでの理不尽な搾取と対応をわびねばなりません。
そして、日本は、反原発と9条を守る、非核と戦争放棄の平和立国として、軍事大国の米国の頚城を確実にはずすべきでしょう。日本の自主自立・ほんものの独立をすすめるべく、わたしはその信念をもって、歌とピアノと映像と語りの”平和コンサート”を日本各地で開いてゆく所存です。みなさまには音楽を楽しんで聴きながら映像を見てもらって、心を開いていただければ嬉しいです。平和な日本を願うわたしの思いをともに共有できたら、みなさんとともに平和を喜んで分かち合えるものと期待しています。そして、私は今、日本の新しいコーラスの曲にとても興味を持って伴奏をしているところです。それというのも新たにすばらしいコーラスの指導者・歌い手さんに出会えて、只今わくわくしているところです。音楽はすばらしい心軽やかに魂を光らせてくれます。
日本の子供たちの未来が、明るく平和に光かがやくように祈っています。今、日本に住んでいる住民一人一人が みな安心して喜んで幸せに暮らせますようにと願っています。そして地球上のみなが、ともに核のない戦争のない、安心と平和な未来を共有できるように、今、日本のわたしたちは、戦争放棄の日本国憲法9条を守り、それを世界にも伝えてゆきたい。そして、 国として 反原発・核兵器廃絶の活動に向かいようにと活動してゆきます。
そしてまずは身近な人たちと平和への願いを共有する活動をしながら、まずは近隣の東北アジアの<日朝中韓台蒙>の6カ国との交流と友好を深めてゆけたらと願っています。 (文責 池辺幸惠 2023.3.23)
広島県福山市北吉津町出身・広島大学付属福山中高から大阪教育大付属池田分校に転入。大阪芸術大学音楽部ピアノ科に入学、全額免除生・総代で卒業。大阪芸術大学に副手勤務・大阪教育大学大学院修士修了・ 大阪芸術大学に講師で勤務
小学校1年よりピアノを始めた。関西音大新人コンサート・日本演奏連盟推薦第14 回ヤマハ Jリサイタル、 毎日ホール・サンケイホール・いづみホール等で、大阪フィルやニューフィルハーモニー大阪等と“ピアノ協奏曲を協演。 河原浩、北野完一、田原冨子、横井和子、ジョルジュ・アゴナシュヌに師事
●S50 大学院の時に池辺眞行と結婚 S52からつづけて3人出産 S56年子育てのため大学退職
●東京の杉並区で下北沢の日本CI協会にて桜沢リマ・大森英櫻先生から桜沢如一の食養の理論と実践を学ぶ。関西に帰ってからも山本祥園先生について研鑽を積む。
●尼崎市にて巷のピアノ教師・ヤマハグレード講師・関西フリースクール研究会会長。
●1981年関西一円のフリースクールの仲間を連帯し、会員500名、全国フリースクール研合宿を島本町にて開催
●長男を屋久島の小学校に転入させ屋久島の農園で4人目を自然出産。3学期からは六甲山小学校に3人をいれる。
●茨木市山手台で2反の畑を耕しながら、共同保育・自然食のコピーライター。この時分 純粋意識の離脱体験をし閃光を放ち爆発至福の歓喜に満たされる「暮らしと給食をみなおす会」をたちあげ学校給食改善・食と暮らしの改善の活動
●神戸市灘区篠原に転居 ”本物を感じる会”を始める。本音を語り合う会・ 小川茂年さんの手技手当て操法・気質人間学講座等等々を毎月主宰する。アトピーネットワークにも参加
●教育への幅広い研鑽と実践、そして食養・陰陽五行・エゴギョウによる気質人間学のセミナーも開催
●1991年6月~7月家族で一ヶ月半かけてモーターホームでワシントンDC.からサンフランシスコまでアメリカ横断旅行
●1995(H7) 1.17 阪神淡路大震災!翌朝から震災ボランティアを初め、4月から灘区で震災ボランティア「ひまわりネットワーク」を立ち上げ3年間震災ボランティアで活躍する。
●1996年2月仮説の子ら10人が北海道岩見沢で駒澤大学の震災ボラの学生たちとスキー
●1997年8月仮説の子ら20数人と震災ボラたちとワゴン・小型トラック・マイクロバスで舞鶴からフェリーで小樽まで行き、北海道で10日間の交流ツァーをした。
●199810月~ 一人でヨーロッパを BPとユーレイルパスで旅行 。独・墺・スイス・伊・西・仏・英をめぐる
●1998 西宮に転居 林秀臣さん文明法則史学・大森英櫻先生の食養などのセミナーも開催。
●ピアノも再開し昔の大学の生徒たちが戻ってきた。「陰陽リラックス奏法」で楽器店などで講演と演奏指導をおこなう。発表会「ふれあいコンサート」も甲東園にて度々開催。
●2003年11月からは毎夏八ヶ岳の”詩游館”で「八ヶ岳ふれあいコンサート」を開催。
●孫弟子たちを7~8年あずかって5人を音楽大学に入学させた。私も演奏活動をはじめる。
2001 第4 回長江杯国際音楽コンクール1位なし2 位
2002 第10 回アジアクラシックコンクール銀賞
2002 第3回 中国音楽コンクール専門の部で金賞、神戸文化振興財団賞等受賞。中国各地をコーラスと一緒に演奏旅行、 杭州音楽院・寧波市民会館で中国のピアノ曲を弾く。
● 2002 中国の胡弓の青年 張剣さんと「ふれあいコンサート」で各地に演奏にまわる。
● 神戸の音楽喫茶でもサロンコンサートを始めた。バイオリンの李陽さんともジョイントライヴ。
● 2003年 豊中市ローズ文化ホールで中国の曲を3曲演奏
● 2005年9月17日いずみホールでショパンのピアノコンツェルトを弾くニューフィルハーモニック大阪指揮橋本徹雄
●夫が東京に単身赴任になり東京にも生徒のレッスンに行き、平和の集会に顔を出す。
●2001年9.11から日本と米国のさらなる接近が懸念されたので、千葉大の小林正也教授ときくちゆみさんが共同代表の「野党共闘をめざす市民の風」のスタッフとして活躍。
●2006.9.11 きくちゆみさんとニューヨークに行き9.11真相究明のデモと会合に参加。
●2007年11月3日 改築された中之島の公会堂で憲法の日に辻井喬さんと映像とピアノ演奏
●2007年9月23日 9条の会「結成3周年の集い」でも9条の会 小森陽一さんと映像とピアノ演奏
以来、あちこちの平和集会に被爆コンサートに加え、政治的な平和のピアニストとして映像とピアノと歌で活躍
●2008年4月西宮市大谷記念美術館で被爆平和コンサート被爆あおぎりの種子も配った。
●2011年その時配ったアオギリが無事育ち芦屋市打出小学校でアオギリの苗を植えて平和のライヴ
●2009年からは被爆ピアノとともに”被爆ピアノ平和コンサート”を関西一円の小中高学校や公民館など、関西でたくさんの公演をしてまわる。被爆映像とピアノ「みさこのピアノ」と歌の公演
●2009年10月 大阪女性の会の学習会で平和コンサート
●2010年正月 海勢頭豊さんと平和行進の仲間と沖縄久高島から初日の出を拝む。沖縄からの平和行進にトピック参加
●2010年3.27 広島で平和コンサート、京都で海瀬頭豊さんとコラボ、映像とピアノの平和ライヴ。
●2010年2月9日静岡県掛川市、7/10堺市西文化会館ホール、7/23明石生涯学習センターホール、8月草津人権協議会で平和コンサート、日本各地で被爆ピアノと平和コンサートをしてまわる。
●広島YMCAホールで講演前の平和コンサート各地で被爆者の方に被爆ピアノコンサート
●8/8広島市で折り鶴の祈りコンサート
●ところが、郷里福山市の母親が交通事故に遭い毎週郷里に通うことになって、公演に十分対応できなくなってきた。とうとう母を西宮にひきとり毎日その世話に追われた。最終的には老人病院に入ってからは毎日通いましたが、とうとう亡くなって葬式を福山ですませた。
●2011年2月 フランスの南のアングレット市にて、バラントンひろみさんの尽力で被曝の語り部「非核特使」の森田節子さんが10回の公演。お城のホールで石橋和子さんと一緒に「平和コンサート」行きはパリに、帰りはローマに行く 。
●2011年3月12日~18日そして日本に帰って鹿児島と沖縄と宮古島で平和コンサートをしている時に、2011.3.11の福島原発事故がおきた。東京の娘とは屋久島のコンサートで合流
●2011年4月そこからは福島3.11の震災ボランティアです。すぐの4月に若いお母さんたちの車を運転し郡山のイベントにつきあって、ピッグパレットで茶話会の聞き取りボランティアをした。
●4月末にも京都のご老人が親戚に会いにゆきたいとご一緒し、被災地の生々しい惨状をワゴンで見てまわった。
●2011年9月4日 高岡市生涯学習センターホールで「街- 過去・現在、そして未来へ」
●2012年4月 朝鮮を初訪朝し<4月春の国際親善芸術祭典>に出演 ディプロマ賞受賞大山蓮華のクリスタルのトロフィー
●2012年5月 宝塚市に転居 息子夫婦と同居する。
●2012年8月8日 故郷福山市の第58回 市民平和のつどいで平和コンサート。ふくやまリーデンローズ大ホールにて
●2012年8/31~9月 <アリラン大公演>の鑑賞に再訪朝し日本の朝鮮への誤解と偏見を認識し不勉強な私を恥じた
●2013年2月 堺市のサンスクエアのホールで、92歳の小笠原美都子さんを囲んで朝鮮学校支援のチャリティー「歌はわが華」を開催。3月の誕生会にて日朝音楽芸術交流会会長を引き受ける
●2013年7月26日~30日 韓国に朝鮮戦争休止祝賀ツアー服部良一さん代表 ソウルで日韓友好シンポウム 臨津江観光
●2013年8月1日~10日イスタンブールからウィーンへ 東京メンネルコールの一員として参加。教会でコーラス公演
●2014年 1月23日 1月 沖縄の数カ所で「新春平和コンサート」を公演
●2014年2月 日本チュチェ思想研究会代表団の団長として朝鮮を訪問。光明星節に出席。
●2014年7.21.3年目に教会の震災ボランティアのワゴンに同乗して釜石に行き、大きな仮設住宅の聞き取りボランティアとお寺の和尚さんから当時の話や写真や震災の跡地を見てまわる
●2014年8月 阪大講堂で石巻の震災以後の映像の解説とピアノ演奏、森松明希子さんの震災の話デバラシさんの映像
●2014年11.23宝塚ハートフル合唱団県立芸術劇場大ホール「ガイア永遠の輝き」に以来ハートフル合唱団の伴奏者
●2015年8.2 ~11 宝塚ハートフル合唱団で私も含む団員15人と被爆の語り部2人と、NYからワシントンDC.に行き、ワシントン大のギャラリーでは丸木位里さんの原爆の図を展示しており8/6ワシントン大学のリサイタルホールで広島・長崎戦後70周年平和記念式典での被爆者の語りと原爆の映像で追悼の平和コンサート、8/9 ホワイトハウス前ではNHKTVも撮影にきた。そして他にも子どもたちの平和キャンプやアメリカの地方の街の2カ所でも、被爆者の語りと平和コンサートを計6カ所で公演してきました。
●2015年10月 朝鮮の10.10の労働党設立70周年の記念式典に出席
●2016年1月10日「新春芸術と交流の夕べ」沖縄でディナーショー
●2016年7月22日 治安維持法犠牲者国家賠償同盟7回総会で平和のコンサート 、三木清さん追悼の歌をうたう
●2017年5月5日. 川西みつなかホールそよ風コンサートで朝鮮の大曲”故郷のから松”を弾く
●2017年8月7日 南アフリカエラ・ガンジーさんを招いて ハートフル合唱団コンサート
●2017年8月31日~9月17日 夫とヨーロッパ旅行 ポーランド・ドイツ・オランダ・フランス・ヘルシンキ
●2017年10月7日 韓国釜山にて日朝の曲で平和コンサート
● <音楽と平和のつどい>を立ち上げ 池辺幸惠が主宰者 以来いくつものコンサートや「原爆と戦争写真展」等々開催
● 2017年11月15日 “戦争を許さない女のつどい”で石川康宏さんとコラボ. 生田文化会館
● 2017年12月7~8日 ソウル市で慰安婦像前に、教会のクリスマス公演と平和コンサートツアー
● 2017年12月11日~19日 金正淑女史の生誕100周年ツアーで平壌訪問
●2018年1月ピアノ寄贈記念新春コンサート合唱団と池辺眞衣池辺幸惠のピアノで2回公演
●2018年3月2日 Spring Concert ポーランドからアンジェイ・ピクル教授を迎えて公演
●2018年4月1日春休みコンサート、三上摂さんのマリンバ. インドからの太鼓 生徒たちの歌とピアノ等
小学6年生の弟子が子供の情景とラヴェルのソナチネ全曲演奏。金和美さんも熱唱!!!
●2018/4 朝鮮通信使ユネスコ世界記憶遺産登録記念シンポジウムでピアノ演奏と朝鮮通信使の特別寄稿
ー東アジアの文化友好と和解の共同体を求めてー
●2018年4月30日 オペラカルメン、ルナ・ホールでハートフル合唱団がバックコーラスに出演
● 革新懇で、映像とピアノの平和コンサート
●2018年12月5日~6日 韓国大邱市での宝塚友好親善ツアーに参加
●2018年2月 メキシコのチュチェ研究会全国大会に参加 ラテンの芸術歴史文化にふれる
●2019年3月8日 女性デーに女性会議で平和コンサート公演、三宮勤労会館
●2019年7月25日 小笠原美都子さんが、享年100才で死亡
●2019年9月7日 「小笠原美都子さんを偲ぶ会」を大阪のホテルアウィーナで開催 300人近くが集い追悼をした。
●2019年10月27日「小笠原美都子さんを偲ぶ会」パート2を六甲学生青年センターで開催
●2019年10月マンハイムのスタインウェイサロンで 娘の眞衣とコラボのサロンコンサートを2回行う。
● ドイツの教会の3カ所で(ミュンヘン・マンハイム )平和コンサートをする。ザルツブルグ音楽祭に行く。
● 2019年3月. インドのデバラシさんとカナダのピアニストを広島・沖縄を案内する
●2019年6月 コロナ禍で予定の公演のキャンセルがつづく中乳がん(ステージ2A)の手術
●2021年1月26日 ハートフルとユネスコ合唱団のコンサート、芸文センター小ホール
●202212月4日 シャボン玉童謡の会とユネスコ後援で「野口雨情物語」公演 ベガホール
●2023 2月 沖縄と東京のチュチェ研究会でピアノと歌を公演 住井すゑさんの記念館と野口雨情の記念館と実家に行く
ここまで書いてるのは、ちらしやDVDでのこってるぶんだけですが、 とても書ききれない細かな公演活動が抜けています。覚えているのにいつどこでだったか・・・分からない???
ここ2年はコロナ禍と乳ガン術後のせいで、けっこうおとなしくしていたけれど、毎月の年金者組合と視覚障害者の施設でのうたごえ会や毎週のシャボン玉童謡の会、毎年10月の公民館祭り、それなりにうちわの研究会等では度々ピアノと歌と公演と報告会と講演、研究会と冊子等の原稿作成に追われていたといっても過言ではない。 そして、わたしは、本虫なので、ほとんど毎日のように本を数時間読んでいる。徹夜しないで本読みを途中でやめれるようになったのは進歩か年か?!日々の読書(漫画から)から得たものは、わたしの人格形成に大いに役立っていると思っています。
対外的には、今は日朝音楽芸術交流会会長として、日朝間の音楽交流と・朝鮮の美しい音楽の普及に尽くそうとしています。あわせて朝鮮の自主自立・正義と平和を基調とする「人民が一番、人民に学び、人民に尽くす人民大衆第一主義」である”チュチェ思想”への研究と理解もすすめています。これまでも日本は少数民族を異民族として排斥同化政策をしてきました。しかしどの民族であれ民族としての尊厳を尊重し、人権・自決権と暮らしを守れるよう共存する国々は手助けをしてしかるべきでしょう。
それ以上に脚下照顧! 当の日本政府が、貧民や母子父子家庭 一人暮らし高齢者のケア介護の問題については、特に今の金持ちとに偏っている自民党政権からは見えない範疇であって、細やかな政治的配慮は皆無といっていい「しったこっちゃない」というわけです。差別と格差拡大が大問題になりつつある今、在日朝鮮人への理解と交流・支援にもできるだけ携わっていきたいし 身近にある朝鮮民主主義人民共和国への悪意ある偏見と誤解を解いてゆきたい。在日や・朝鮮学校の生徒たちへの差別と偏見をなくせるような政治へと応援し活動をしたいと思っています 。
同様に、日本における朝鮮・韓国、そしてアイヌや琉球の方々も同様に、これまでの日本人による偏見と差別の過去の酷い仕打ちについても、日本人一人一人が日本という国が彼らに一体何をしてきたかをよくよく知って理解し顧みてよく考え、心からのお詫びの気持ちを持たねばならないとわたしは思っています。これまでの日本の国としての態度をみた時、過去から今までの目をそむけたくなる事実も真摯に見つめ、そして、未来に向けて友好を築いてゆくにはどうすればよいのかを、わたしたち日本人として、いまだに目の前にある過去のありのままの事実を認識して真剣に考えてこそ、これまでの朝鮮・韓国への誤解や偏見も少しずつ解けてゆくと思います。
朝鮮・中国と同様に、沖縄への対応も歴史を十分にしらねばなりません。沖縄を足蹴にしてきた反省と米軍基地集中への反省と、琉球弧の島々を米軍基地の拠点の軍島にしてしまっている現状をよくよく見つめ、沖縄への尊厳を保ち自立への支援をして、これまでの日本との不幸な確執が溶けるように日本国民一人一人がよくその歴史を認識すべきでしょう。 辺野古 高雄や馬毛島の基地建設も同様に、なぜそんな不自然な工事を沖縄の反対を押し切ってまで続行しているのか?!?それは原発再開どうように利権ゆえのゴリ押しです。国内の少数民族の自立自決権を尊重してこれまでの理不尽な搾取と対応をわびねばなりません。
そして、日本は、反原発と9条を守る、非核と戦争放棄の平和立国として、軍事大国の米国の頚城を確実にはずすべきでしょう。日本の自主自立・ほんものの独立をすすめるべく、わたしはその信念をもって、歌とピアノと映像と語りの”平和コンサート”を日本各地で開いてゆく所存です。みなさまには音楽を楽しんで聴きながら映像を見てもらって、心を開いていただければ嬉しいです。平和な日本を願うわたしの思いをともに共有できたら、みなさんとともに平和を喜んで分かち合えるものと期待しています。そして、私は今、日本の新しいコーラスの曲にとても興味を持って伴奏をしているところです。それというのも新たにすばらしいコーラスの指導者・歌い手さんに出会えて、只今わくわくしているところです。音楽はすばらしい心軽やかに魂を光らせてくれます。
日本の子供たちの未来が、明るく平和に光かがやくように祈っています。今、日本に住んでいる住民一人一人が みな安心して喜んで幸せに暮らせますようにと願っています。そして地球上のみなが、ともに核のない戦争のない、安心と平和な未来を共有できるように、今、日本のわたしたちは、戦争放棄の日本国憲法9条を守り、それを世界にも伝えてゆきたい。そして、 国として 反原発・核兵器廃絶の活動に向かいようにと活動してゆきます。
そしてまずは身近な人たちと平和への願いを共有する活動をしながら、まずは近隣の東北アジアの<日朝中韓台蒙>の6カ国との交流と友好を深めてゆけたらと願っています。 (文責 池辺幸惠 2023.3.23)